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ヤジはなぜ肯定されないのか、小西洋之さんの発言を引きながら徹底的に考えてみた

日々のこと

一日立っても「総理に対するヤジ問題」が収束しないので、改めてなぜヤジが駄目なのか、肯定してはいけないのかを論理的に考えてまとめてみました。

議論のきっかけを作って下さった小西洋之さんには心より敬意を示したうえで、論破させていただきます!

はじめに

先に述べた通り、小西洋之議員(立憲民主党)は、本会議中のヤジ(演説中、総理が発言している間に議場から飛ばす野次)を

「監視監督の手段」「議会活動の一環」「政治闘争の舞台演出」

として肯定しています。しかし、私はこれをあらゆる観点から論理的に反駁したい。

国会は「声の大きさ」「演出型怒号合戦」の場ではなく、国民代表として「言葉に値する論理・秩序・聴取性」を備えた議論の場でなければならないからです。

以下、論点ごとに整理します。


論点1:国会議員の「監視監督」責務とヤジの関係

小西氏の主張では、「憲法上、国会は内閣を監視監督する責任を担っており、その監視監督の対象として総理の演説がある。ゆえにヤジもそれに含まれる」と述べています。

たしかに、これは一見説得力があります。ですが、これには重大な飛躍と誤認が含まれており、以下の通り反論します。

(a) 監視監督=ヤジではない

監視監督というのは、立法府として内閣・政府の政策・執行・説明責任を問い、質疑応答・討論・審議を通じてチェックを行うという意味です。

憲法・国会法は議員にこの責務を付与しています。例えば、参議院において「国務大臣のやじに関する質問主意書」が出されており、「議長の許可を得ない私語・やじ」を「不規則発言」として問題としています。 参議院

つまり、「監視監督の責務だからヤジを飛ばして良い」とするのは、議会制民主主義の手続きを軽視する誤った短絡です。

(b) 演説中のヤジが「問う/質す」機能を果たすか?

総理の演説中にヤジを飛ばすという形式について、次の疑義があります。

  • 総理の演説は「国家の方針・政府の意思表明」という重大な発言であり、国民に向けて示されるものです。そこにおいて所属議員が“声を重ねる”形でヤジを飛ばせば、演説を聞く国民の「知る権利」「聞く権利」を阻害します。実際、最近の報道では、所信表明演説中のヤジに対し、SNS上で「人の話を聞けない国会議員いらない」「日本の恥」などの批判があがっています。 coki+1
  • また、ヤジのタイミング・内容・意図が議場の形式を超えた“演出”になっているという指摘もあります。 はたらく!猫リーマン

    これらを踏まると、ヤジが「監視監督」という目的を果たしているとは言い難く、むしろ議論の秩序・透明性・公的信頼を損なうリスクがあります。

(c) 監視監督=冷静な討論・質疑が中心

本来、国会における監視監督の手段として想定されているのは、演説後の質疑応答、委員会での審議、討論、政策説明を求める問い、立法案の審査などです。

議場でのヤジというのは、その「問い」「説明」「応答」というプロセスを踏まず、割り込み・中断・ノイズとして発せられることが多い。

つまり、議論を深化させるよりも論点を散逸させ、構造化された説明責任を阻害する可能性があるのです。

したがって、小西氏が「監視監督=ヤジ」とする論理には重大な瑕疵があります。


論点2:「議場だからヤジは許される/演説=政治闘争の舞台」という主張

小西氏の主張では、演説の場こそ“静粛に拍手だけを受けて終わるもの”ではなく、「議会制民主主義における総理と議員の政治闘争の場」「演説=舞台」「野党のヤジ=政治闘争の手段」である、という論理を展開しています。

この主張にも、少なくとも以下の3点で反論が可能です。

(a) 議場=闘争のステージ、という言い方は民主主義の議論を軽視

確かに政党・議員間の対立、政策の違い、政権と野党の緊張関係は議会の一部です。しかし、議会は単なる“演劇”や“格闘場”ではありません。

制度的には、●国民の代表が集い、●政策を検証し、●説明責任を果たし、●公開の討論を通じて意思決定に至る機関です。

言語を用いない“ヤジによる割り込み”“怒号による存在アピール”という形式が主役になるのは、議論と説明責任の観点からみて本末転倒です。


さらに、議場を「拍手とヤジ」で盛り上がらせる“劇場化”は、政策の中身・根拠・説明責任を薄め、観衆(国民)を“観客”に変えてしまう。これが「国会改革」「説明責任強化」の議論と逆行するものです。

(b) 聞く/読むことができる環境と、ヤジの影響

総理演説中にヤジが飛ぶと、報道ベースでも「演説がかき消された」「発言が聞き取りにくい」「映像が騒然となった」という批判が出ています。 テレ朝NEWS+1

議会は国民に開かれた場であり、メディアを通じて国民が発言内容を把握できる必要があります。ヤジがそれを阻害するのであれば、制度的な説明責任・透明性を損なうという点で大きな問題です。

(c) 野党の“声を上げる手段”であるならば、もっと建設的な手段がある

野党が政権の方針や演説内容に異議を唱えるのは当然です。しかし、それをヤジという形式で、総理演説中に割り込むというのは「最良の手段」ではありません。

むしろ、演説後の質疑時間を使って、準備した専門的な質問を通じて根拠を追及するのが制度的に適しています。

ヤジ形式がまるで“手持ちのマイクを片手に登壇寸前で叫ぶ”ような行為になると、「政策論争」ではなく「存在アピール・目立ち合戦」化する危険があります。

したがって、「議場=舞台」「ヤジ=政治闘争」というフレームは、議会制度・説明責任・国民の知る権利という観点から崩れざるを得ません。


論点3:「手元に原稿・事前入手で“聞いていない”は誤解」「意義あるヤジは演説を深く理解していないとできない」という主張

小西氏の主張では、「議員には総理演説の原稿が配られており、事前入手も可能。ゆえに『人の話を聞いていない』というのは誤り。むしろ良いヤジは演説を深く理解していないとできない」という論理を展開しています。

しかし、この論理にも以下のような反論が可能です。

(a) “原稿入手=理解・傾聴”にはならない

確かに議員には演説原稿が配布されることがあります。しかし、原稿を事前に入手しているからといって、演説中に議員が実際に演説を“聞いている”ことにはなりません。

演説中にヤジを飛ばすという行為そのものが、演説を遮る・発言者を中断・場の集中を乱すものです。傍聴・視聴している国民の目から見ても、「聞いていた上での建設的な割り込み」なのか、「聞いていなかった・話を止めさせるための乱入」なのか判別は困難です。

そして、議会制度・委員会制度・討論制度においては“演説を聞く”という行為も含めて「議員としての責務」です。聞かない・遮る形での声出しは、その責務を果たしているとは言えません。

(b) 「理解しているからヤジできる」という逆説は説得力を欠く

「意義あるヤジは演説内容を深く理解しないとできない」という主張は、一見論理的ですが、実際には「深く理解していれば黙って聞き、問質のために準備して質問・討論を行う」というのが議会制度の合理的な流れです。

演説中に即座に“ヤジ”を入れるというのは、むしろ瞬時に反応する“感情的な叫び・割り込み”に近く、「理解しているから即ヤジ」という論理には説得力が弱い。

加えて、議員が「聞いていた上でヤジを飛ばした」と主張できたとしても、国民から見れば「聞いていない/話を聞く姿勢がない議員」との印象を強めるリスクがあります。実際に、報道では「人の話を聞けない国会議員いらない」という批判が出ています。 coki+1

(c) 聞く・理解する・問い質す—この流れを刈り込みうるヤジ形式

議会制度の観点から最も健全なプロセスは、「発言を聴き、記録・理解し、質疑・討論・説明責任を果たす」ことです。

演説中の即座のヤジはこのプロセスを途中で断つ可能性が高く、発言者の説明を妨げ、応答の場を縮小させてしまいます。ここに制度的な破綻があります。

以上より、「議員は原稿配布されている/意義あるヤジは深い理解を要する」という小西氏の主張は、「だから演説中のヤジが問題ない」という論理には至らず、むしろ逆説的に「理解しているなら黙って聞け、問いを用意してから質疑に移れ」という制度的な期待を強めるものです。


論点4:ヤジの内容・形式・国民への責任という観点

小西氏の主張「私は演説のある一文に疑義を感じた。だから議場の全議員に伝えるためにこのヤジを行った。ヤジは非常に重要な国会議員の議会活動である」という主張に対しての反駁です。

(a) 伝えるべきは議場での“声”ではなく議場での“説明責任・記録・質疑”

たしかに、演説中に「北方四島の」という言葉が抜けていると感じたという点に関して、議員が疑義を感じてそれを問い質すという行為そのものは、監視監督の観点から許容され得ます。しかし、その「問い質し方」がヤジという形式である必要はありません。

議場には“質疑時間”“討論時間”“委員会審議”があります。そちらを用いて、落ち着いて論点を提示し、相手側の説明を求めるべきです。

演説中のヤジは、伝えるという目的よりも「即刻注目を集める」「場を揺さぶる」「映像化される」という意図が強く、国民からの信頼という意味で逆効果となることが多いのです。

実際、報道では今回のヤジ騒動に対して「国民の聞く権利を奪った」「議会を私語の場にするな」という批判が出ています。 coki+2テレ朝NEWS+2

(b) 国民の代表である議員としての「責任」と「品位」

議員は国民の「代表」です。その場(演説中・本会議場)での所作・言動は、国民の信頼を担保する役割があります。議場でのヤジ騒ぎが本格化すれば、「議会は見世物なのか」「議員は自分たちの存在アピールしかしていないのか」という不信感を国民に与えかねません。

実際、幾つかの報道で「日本の恥」「昭和の政治から抜け出せ」という声が出ています。 coki+1

このように、ヤジという形式は議員個人の存在を前面に押し出し、議会全体の「説明責任」「議論の質」「国民との信頼関係」を損ないかねません。

(c) 映像・メディア時代における「議場の見られ方」

かつて議場のヤジは、国会中継を見ない大多数の国民にはあまり映らない“議場内部のやり取り”であったかもしれません。

しかし、現在は中継・ネット配信・SNS拡散という時代です。演説中のヤジがそのまま映像化され、国民に「議場内が騒然としている」「演説が聞こえない」という印象を与えやすくなっています。

報道でも「飛んだヤジがSNSでトレンド入りした」「組織的“ヤジ部隊”という言葉まで生まれた」という指摘があります。 はたらく!猫リーマン+1

議場での言動は「セレモニー」「公式発言」「国民向け説明」の場であることを自覚すべきで、形式的・視覚的な“演出”に流されていいわけではありません。


総括:行き過ぎたヤジは国会の信頼・制度を害する

以上から、以下のように結論づけます。

  1. 監視監督という立場は確かに国会議員に課せられており、総理演説も監視の対象となる。しかし、ヤジという手段がそれを正当化するわけではない。むしろ、議論・質疑・説明責任という制度的手続を軽視するものである。
  2. 議場を「舞台」とし、ヤジを「政治闘争の武器」とする論理は、議会の本質である「国民に対する説明・討論・意思決定」の場という役割を損ないかねない。
  3. 「手元に原稿あり、理解あり、ゆえにヤジあり」という主張は、議会としての責務(聴く・理解する・質す)を省略し、瞬発的な割り込みを正当化するものに過ぎない。
  4. 国民代表としての議員には、場の品位・議会制度・メディア時代における説明責任という観点から、「ヤジではなく問い質す」という形式を選ぶ責任がある。行き過ぎたヤジは、制度の信頼・議会の品位・国民の政治への信頼を著しく損なう。

このような観点から、私は強く主張します:「議会でのヤジはダメだ」

議会風景を“怒号と割り込みの場”にしてしまえば、民主主義制度の根幹である「言論の場としての国会」「首相演説を国民に届ける場としての国会」が、形骸化・劣化してしまいます。

議員はいかに反対・批判・監視するかではなく、いかに質の高い説明責任を果たさせるかにこそ力を入れるべきです。感情を声量で示すのではなく、論理と資料と質疑で示すべきなのです。

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音喜多駿

おときた駿
参議院議員(東京都選挙区) 42歳
1983年東京都北区生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。LVMHモエヘネシー・ルイヴィトングループ社員を経て、2013年東京都議会議員に(二期)。19年日本維新の会から公認を受けた参院選東京都選挙区で初当選。21年衆院選マニフェストづくりで中心的役割を担う。
三ツ星議員・特別表彰受賞(第201~203国会)
ネットを中心とした積極的な情報発信を行い、ブログを365日更新する通称「ブロガー議員」。ステップファミリーで三児の父。
著書に「ギャル男でもわかる政治の話(ディスカヴァー・トゥエンティワン)」、「東京都の闇を暴く(新潮社)

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